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鵜飼の歴史
鵜飼の歴史
長良川鵜飼のルーツをたどる
それは奈良時代に記された戸籍にあった!
日本における鵜飼は、そもそも稲作とともに中国大陸より伝えられたと言われています。
中国四川省の後漢時代(1~2世紀)の遺跡から出土した画像摶には、船に乗った漁師が、鵜と思われる鳥をつかって魚をとる様子が描かれています。
日本でも『日本書紀』や『古事記』に鵜養部(うかいべ)、鵜養(うかい)と言ったことばが記されており、万葉集にも鵜飼のことをよんだ歌が掲載されています。
岐阜の鵜飼が初めて文献に登場するのは奈良時代のこと。
大宝2年(702)、各務郡中里(現在の各務原市那加周辺)の戸籍に『鵜養部目都良売(うかいべめつらめ)』と書かれた、鵜飼を職業にしていた人達と思われる名前が載っています。
平安時代中期に作られた日本最古の百科事典と言われる『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、美濃国方県郡のなかに『鵜飼郷(現在の岐阜市)』があったことが記されています。
また、延喜(えんぎ)年間(901~922)には、長良川河畔に7戸の鵜飼があったという記述が残されているほか、 昔の法律の決めごとが書かれた『延喜式(えんぎしき)』(927)には、美濃の鮎鮨(あゆずし)が諸国の献上鮨(けんじょうずし)のひとつとして登場しています。
織田信長や徳川家康…
時の権力者に愛された長良川鵜飼
長い歴史を持つ鵜飼ですが、特にこの岐阜県長良川で長きにわたり継承されてきた理由は、自然条件に恵まれていることはもちろん、時の権力者たちの庇護(ひご)を受けてきたからだとも言われています。
平治元年(1159)のこと、平治の乱で敗れた源頼朝が敗走するとき、長良川河畔で道に迷い、鵜飼の家に宿を借りたといいます。これが縁となり、そのときもてなしを受けた鮎鮨(あゆずし)が鎌倉幕府に献上されるようになったとか。 そして戦国の世になると、岐阜を足がかりに天下統一の夢を追った織田信長が鵜飼見物をしており、鵜飼に感動した信長は『鵜匠(うしょう)』の名を授けたと言われています。
さらに、天下を平定した徳川家康も、その鵜匠の技に魅せられたひとりです。元和元年(1615)大坂夏の陣の帰り道、息子の秀忠を伴って岐阜へと立ち寄った家康は、父子で鵜飼を見物しました。 そのときに食べた鮎鮨を大変気に入り、幕府への献上を命じたと伝えられています。
そのため、鵜匠は川で優先的に鵜飼ができる特権を与えられました。同時に、給米料(きゅうまいりょう)を賜り、土地の諸役を免じられ、手厚く鵜飼を保護されるようになりました。
この将軍家御膳御用の鮎鮨は、御鮨処(おすしどころ)という専門の役所が置かれ、そこで製造されました。
そして、江戸まで宿場の問屋をリレーしながら運ばれました。これを宿次(しゅくつぎ)と呼び、幕府に使える特別な仕事として輸送を命じる老中証文(証明書)が出されました。
宿次は岐阜を出てからちょうど5日目に江戸に到着するように、厳しく時間を守られていました。これは鮎鮨が発酵して食べ頃になるのに5日間かかるためです。
このようにして時の将軍はもちろん、重臣たちや大奥でも鮎鮨を口にしたといいます。献上は幕末まで、江戸時代を通して続けられました。長良川の鵜飼、そして鮎は、それほどまでに珍重されていたのです。
超人気の観光スポット 金華山と長良川
あのベストセラー作家も大絶賛!
江戸時代後期になると、鵜飼は全国有数の観光名所として広く知れ渡るようになりました。
それはある人気俳人のひとことがきっかけでした。 貞享5年(1688)、松尾芭蕉が岐阜にいる知り合いの招きで稲葉山(金華山)のふもとで鵜飼を見物しました。このとき芭蕉は、金華山と長良川というロケーションと、幻想的な篝火に照らされ浮かぶ鵜飼の素晴らしさに感動し、この句をうたいました。
おもしろうて やがて悲しき 鵜飼かな
この句の大ヒットにより、長良川の鵜飼が一躍全国に知れ渡り、多くの人が岐阜を訪れて鵜飼を見物するようになりました。
やがて船に柱を立てて屋根をのせた屋形船が登場し、お酒やお弁当を用意して鵜飼を楽しむようになりました。
ただし、現在のように観覧船の前で鵜匠が鵜飼を見せるのではなく、鵜飼を行っている時に船を出し、周りから勝手に見物するスタイルだったようです。
鵜飼は月が没してから昇る前に行われ、漁をする区間は毎回変えるのが通例だったため、ベストポイントの『鏡岩』で毎日見られたわけでもなく、時間も一定ではありませんでした。
当時の鵜飼見物は、なかなかたいへんなものだったと思われます。
幕末から明治維新
激動の時代を経て宮内庁式部職に
幕府によって手厚く保護されていた長良川鵜飼ですが、明治維新とともに鵜匠の特権も廃止され、厳しい時代を迎えることになります。
鵜舟の通行や鵜の活動に障害となる川漁も増え、アユをはじめとする魚類の乱獲により、魚の数も減ってきました。
そんな折、明治11年(1878)、明治天皇が諸国訪問で岐阜に立ち寄られたとき、付き添いの岩倉具視らと鵜飼を見物し、鮎を賞味されたといいます。
これが契機となって、長良川の鵜飼は再びクローズアップされることになります。明治23年(1890)には、鵜匠の地位の確保と伝統を継承し、さらに自然保護を目的とした禁漁区の「御料場(ごりょうば)lが設置されました。それと同時に、鵜匠は宮内庁の管轄下に身をおく「宮内庁式部職(くないちょうしきぶしょく)」という肩書きが与えられ、御料鵜飼が行われるようになったのです。
現在の御料鵜飼は、長良川鵜飼(岐阜市古津地区)の鵜匠6人と、小瀬(おぜ)鵜飼(関市立花地区)の鵜匠3人によって行われています。年に8回行われる御料鵜飼で獲れたアユは、宮内庁に納められています。また、古津地区では駐日大使夫妻等を招待して行われており、日本の伝統文化のPRの一助ともなっています。
ワンダフォー!!
世界の喜劇王が認めた鵜匠の技
長良川鵜飼の素晴らしさに魅せられたのは、日本人だけではありません。
海外からのお客さんの目にも、鵜匠の技は感動的に映りました。世界の喜劇王・チャールズ・チャップリンもそのひとりです。
4回来日したチャップリンは、そのうち昭和11年と36年の二度にわたり、鵜飼を鑑賞しました。そのとき、鵜匠のことをアーティストとほめたたえ、「ワンダフォー!ワンダフォー!」と連呼したとか。
日本の伝統を受け継ぐ古典絵巻は、世界のエンターティナーの心をとらえて離さなかったようです。